sitemap

vol.1 藤田賢一さん (パン屋たね 店主) その1

Oi-pan interview パン屋さんの「なんでパン?」をうかがいます。

●藤田賢一(ふじたけんいち)さんのプロフィール
石川県金沢市生まれ。日本工学院専門学校・音響芸術科卒業後、
「TAMCO(タムコ)」でテレビ番組の制作に携わる。
主な番組に「ザ・ベストテン」「風雲!たけし城」など。
東京・富ケ谷「ルヴァン」のパンと出合い、パン職人を志す。
長野県「カナディアン・ファーム」で修業後、
1998年、金沢市玉鉾に「ラ・フィセル」オープン。
2005年、金沢市富樫に「パン屋 たね」を移転オープン。
同年に、フランスチーズ鑑評騎士の会日本支部「シュヴァリエ・デュ・タスト・フロマージュ」
叙任。



東京での充実した会社員生活を送っていた藤田さんは、
25歳で、ふとこの先の人生のことを考えます。
「私が私らしく生きるために、どう生きればいいのか」。
日々探した結果、見えてきたいくつかの夢、理想の形。
それらを実現へと導くキーワードが「パン」でした。




その1

すごい力を持ったパン

―    ちょっとお話はさかのぼるんですが、藤田さんが金沢の玉鉾で始めた「ラ・フィセル」は、革新的なパン屋さんでしたよね。対面販売で、店の人がパンを取ってくれるという。

ラ・フィセルの外観

藤田・・・でも当時、あのスタイルは、自分の中では革新でもなんでもなかったの。その根本は、東京富ケ谷の「ルヴァン」。この店に出合った時にはびっくりした。「えっ、これがパン屋なの、こんな販売方法なの?」って。パンもお店も好きになって、何度も通ううちに、あのスタイルを完全に吸収しちゃって、自分の中で自然なものになってしまってたんですよね。だから、みんなが驚いたり、とまどったりしていることに気づかなかった。かつての自分もそうだったことを、すっかり忘れてたんだよね。

東京富ケ谷の天然酵母パンの店「ルヴァン」

―    金沢の人たちはびっくりしてたのに、藤田さんの中ではごく自然だったんですね。

藤田・・・店を立ち上げた頃は、気づく「心の余裕」もなかったしね。フィセル独自に作ったのは、お客さんが座れるスペース。というのは、ルヴァンに通ってた当時、お店の人としゃべるのが、すごく面白かったんです。でも、タイミングが合わないとなかなかしゃべれない。お店の人に 「ゆっくりしてってよ。今お茶いれてるから、座って待ってて」と言われても、あの狭い店内にゆっくり座ってるなんて、申し訳なくてできなかった。「もった いないなぁ、テーブルと椅子があればいいのに」とかねがね思ってたんです。まだ「ルヴァン」にカフェ「ル・シャレ」ができる前のことです。パンを作って販売しながら、時々ゆっくり腰かけてお客さんと一緒にお茶でも飲めたら、なんて豊かな毎日だろう」と、自分の店には実際に作ってしまったんです。

フィセル店内の大きなテーブル

 

 

 

 

 

 

 


―    のちにルヴァンにはカフェ「ル・シャレ」が併設されますから…フィセルではすでに先取りしてたというわけですね。

藤田・・・そうそう。でもル・シャレはちゃんとしたカフェだから、座ったらオーダーが必要だけどね。自分の店でやるなら、「座ってオーダーしなくてもいいテーブルがある」というのが理想だった。要するにコミュニティですね。いろんな職種とか年齢層の人がいるだろうけど、「パンが好き」というキーワードで集まった人たちなら、すぐに打ち解けるだろう。絶対すぐ話もつながるはずだと思ってた。

―    実際、コミュニティができて、すごく個性的な人たちが集まったと聞きましたが。

藤田・・・いろんな人が来たよね。面白い人がいっぱい集まってました。アナウンサー、雑誌のデザイナー、そば屋さんの奥さん、大学生…自分を確立してる人もいたし、確立したいと思ってジタバタしてる人も結構来てた。大げさに言うと、人生の岐路に迷ってる人に影響を与えるようなことも、たびたびあったね。

フィセルのテーブルに集ったお客さんたち

―    「パン好き」というキーワードで、そんなコミュニティーが…不思議だけど、なんだかわかる気もします。でも、旗振り役の藤田さんは、もともとパン好きだったんですか?

藤田・・・ほんとは「できればご飯」の人です(笑)。米、大好きだもん。確かにルヴァンのパンはすごい力を持ったパンだと感じましたが、それは、ルヴァンのパンだから。ほかの店でそんなふうに感じたことは1回もなかったんです。だからこそ、ああいうものを作れるようになれたらいいと思ったんだけれど。もともとパンが好きなわけではないです。

―    じゃ、どうしてパンを作るようになったんですか?

藤田・・・ルヴァンのパンと出会った時も、すぐにあんなパンが焼けるようになりたいと思ったわけじゃない。当時、東京で会社員をしてて、「この先、独立して何かやるとしたら、自分に何ができるのか」と考えていた時だったんですね。「資格もないし困ったな。じゃあこのままでいいのか、いやそれはイヤだ」。「何か店を作りたい」。ではどんな? お客さんが毎日買いに来れて、会話もできて、なるべく安い価格で、同じ素材でも作り手によって仕上がりに違いが出るもの。家具や工芸品でもいいけれど、お客さんは毎日通ってはくれない。ラーメンやお寿司やさんだってそう。毎日となったら…「そうだパンがいい!」と。その時、ルヴァンが思い浮かんで、「あんな個性的なパン、どうやって作るんだろう、作ってみたい」と思った。パンなんて焼いたこともなかったのに、「作れる」という確信だけはあったんです(笑)。
それでルヴァンに入りたくて、しばらく待ってたけど欠員がなくて入れない。仕事もやめてお金もなくなったところで、長野県の「カナディアン・ファーム」で働くことになったんです。

―    カナディアン・ファーム! とってもユニークなところだったみたいですよね。

当時のカナディアン・ファーム外観

藤田・・・その頃のルヴァンの店長の中島さんから「行っといで」と言われて、「はい」とそのまま行って、働くことになったんです。行ってみてわかったんですけど、ファームは「ハセヤン」こと長谷川豊さんが運営してて、夏場はレストラン、秋から春はログビルダーが主な仕事。全国からいろんな思いを持つ若者がて働きに来ていて、彼らは「イソーロー」と呼ばれてました。レストランの地下には石窯があって、必要に応じてパンが焼かれていました。

―    そこで、どんなふうにパンを勉強されたんですか?

藤田・・・「これでパン作りが勉強できる!」と喜んだのもつかのま、気づいたんですよ。ここに「パン焼きのプロ」がいないことに。それでも、お客さんのために毎日パンを焼くことをまかされてしまい、最初の1年は、無我夢中でやってました。でも、2年目になると、いいタイミングでいろんな人と出会うことができた。辻あべの調理師学校の先生がたまたま来て、私の修業を見るにみかねて、後日製パンの理論の本を送ってくれたり。当時は石窯でパンを焼いてるところも珍しかったし、いろんなパン屋さんが「ちょっと見せて」と見に来ましたしね。「見せてあげてもいいけど、パンのこと教えてくれる?」といろいろ聞きまくるんです。粉は、水は、温度はこのぐらいでいいんですか?と。そんなふうに利用できるものはなんでもしてました(笑)。

ファームに訪れるお客さんと修業時代の藤田さん

 

 

 

 

 






―    ファームでは2年間修業されたんですよね。その悪戦苦闘中の思い出のパンってありますか?

藤田・・・クロワッサンかなぁ。今考えると、一番手こずったパンですね。1年少しやって、ほとんどのパンが作れるようになって、「このままやっていけばきっと上達して、お金を出して買ってもらえるパンが作れるようになるだろう」と思ってた矢先に作ってみたら、ひどい出来上がりで。天板がバターの海になって、パンは膨らまずにカサカサになってました。「この物体があのクロワッサンになるわけがない!」という状態でしたね。「努力とかそんな生易しいもので、売り物になるクロワッサンが作れるようになるわけがない」と頭を抱えちゃいました。すでに知り合ってた妻の千恵に、「もう、俺、ここにいても駄目だわ。ほかのパン屋に行くから」と言ったら、「行かないで」と泣かれて。「じゃ、しょうがねぇ、いてやるわ」と思いとどまった(笑)。今考えると、どうやったらあんなクロワッサンが作れるのか、逆に不思議なんですけど(笑)。

―    きっと悪い条件が重なったんでしょうね。

藤田・・・ファームの地下のパン焼き場には、何かいるんです(笑)。霊的なもんじゃないですよ。わかんないけど、何かの力が加わってる。物理的に考えても、ありえないような失敗が毎回あり過ぎましたもん。カンパーニュが横から膨れたりとか。

―    でも普通は会えないような人とも会えたり、不思議な巡り合わせの場所でもありますよね。

藤田・・・あったねぇ。いろんな意味で、私にとってファームは運命的な場所でした。



※カナディアンファームとそこでの藤田さんの修業時代を詳しく知りたい方はこの本を・・・

『カナディアン ファームの仲間たち』(銀河出版舎 1300円)

2010年発行。ファームで学び、何かをつかんで巣立っていった仲間たちが、
当時の悩み、思い、喜びを率直に語っています。
彼らを温かく広い心で見守る長谷川豊氏のダイナミックな生き方、考え方に思わず引き込ます。
藤田さんは「イソーロー」のケンとして登場。


(つぎに続きます!)