●内籐直樹さんのプロフィール
1961年、広島県出身。
カワイ楽器の調律師として金沢に赴任。
パン屋でのアルバイトをきっかけにパン職人になることを決意。
「ドンク」での修業を経て、
’92年に「アリスファームキッチン」を開業。
趣味はピアノ演奏。
― 内籐さんは元々はパン屋さんじゃなかったんですよね。
内籐・・・ええ、ピアノの調律師でした。広島県出身で、金沢には配属されてやってきてました。調律師の仕事は好きだったんですが、当時はピアノの営業もやらなきゃいけなくて…それがキツかったんですよね。ある時、知人の紹介でパン屋でアルバイトをする機会があって。やってみるとすごく面白かった!
― へぇ~
内籐・・・パンを焼いた時に生地がすごく伸びて膨らんでくる、あの感じが面白くて。
「これ、なんかいいな! パン職人になろうかな」と思っちゃったんです。
― 以前からパンは好きだったんですか?
内籐・・・いや、特に興味はなかった(笑)。ただ高校の頃、母がパンの大手会社「アンデルセン」で働いてたんですよ。広島が本社なんですけどね。だから高校の頃はよくそこのパンを食べてました。なぜか母から「パン屋になったらどう」なんて言われたこともあったんですが、当時は全然その気はなかったですね。
― 不思議ですね~。それでパンに目覚めてからは?
内籐・・・調律師の仕事をやめて、パン屋で働き始めました。
― いさぎよい その時点で、将来はパン屋開業を目指してました?
内籐・・・はい。それで大和にある「ドンク」に26才で入社しました。
― どうして「ドンク」に?
内籐・・・パンに興味を持ってから各店のパンをいろいろ食べ比べてみたり、本を読んだりしてたんですが、なにしろ20数年前でしょ。とにかく情報がない。情報が氾濫してる今とは大違いです。ハード系のパンなんて、存在は知ってるけど、どうやって作ったらいいのか全くわからなかったんです。その頃、金沢でハード系のパンをいろいろと作ってたのが「ドンク」でした。バケットやミッシュブロートとか。あと、カレンズとかのドライフルーツや、クルミなどのナッツ類も豊富に使ってましたしね。
― あ~そうだった クリームパンやあんパンなどが全盛の時代に、ナッツやドライフルーツを使ったパンは新鮮でしたよね。確かに当時、ハード系パンをしっかり勉強するなら「ドンク」がぴったりだったかも。でも、どうして地元に帰らず、金沢に残ったんですか?
内籐・・・20才から6年間ぐらい金沢に住んでて、なじんでたし。広島よりむしろ、こちらのほうが好きなぐらいだったんです。むこうのほうが都会ですが、金沢は城下町の洗練された文化があるし、しっとりと落ち着いたいい町だと思います。何よりも食べ物がおいしいのがいいですね。
― それは、地元人としてはうれしいなぁ。それで、ドンクでは何年ぐらい修業したんですか?
内籐・・・約4年です。ここではいろいろ学びましたね。
― 具体的にどんな?
内籐・・・ドンクではさまざまなパンのレシピや段取り、工程が細やかに考え尽くされていました。それを毎日の作業で繰り返すことで、早く正確にこなせるようになっていったんです。当時は、作業中はもちろん夢の中でもパンのことばかり考えてましたね。
修業中、すごいなと思ったのは「リュスティック」の作り方。今では一般的なパンになってますが、当時は製法がどうしてもわからなかったんです。ドンクでこの製法を教えてもらった時は驚きましたね。
― え、どうしてですか?
内籐・・・フランスパンの生地をこねないで成形してたこと! これには気づきませんでしたね。フランスから職人を呼んで技術指導してもらっていたドンクが、いち早く取り入れた製法です。このリュスティックの製法はおそらく、’97年ぐらいまでドンクしか知らなかったんじゃないかな。その頃からですかね、まだなじみのなかったフランスのさまざまなパンの製法が日本に導入されていったのは。
― パン新時代の幕開けの時期だったんですね 天然酵母もその頃からだったでしょうか?
アリスさんでは天然酵母のパンにも力を入れておられますけど、その技術は「ドンク」さんで習得されたんですか?
内籐・・・天然酵母は’98年ぐらいから日本でも注目されるようになってきて、大きく広がったのは2000年に入ってからだったと思います。僕が独立したのが’92年だったんで、天然酵母は店を始めてから独学で学んでいきました。
(つぎに続きます!)